尾崎匡哉と野球と青春と

 今秋ドラフト1位候補の報徳学園・小園海斗内野手(3年)は、泣きじゃくった。報徳学園が、東兵庫大会の決勝で市尼崎との接戦を制し、8年ぶり15度目の甲子園出場を… - 日刊スポーツ新聞社のニュースサイト、ニッカンスポーツ・コム(nikkansports.com)

僕の母校が2018年、夏の甲子園への切符を掴みました。ありがとうございます。
さすが!おめでとう!応援に行きたい!

それはさておき、ちょっと真面目なブログを書こうと思う。
甲子園で思い出すのは僕の同級生の話。

ある日こんなニュースが僕の箸を止めた。
日ハム「尾崎匡哉」、2014年、10月21日に球団より戦力外通告。その後、現役を引退。

僕が通っていた高校は「報徳学園」という名前の高校で、野球部が強いことで有名だ。何を隠そう、まさに僕が在籍していた当時、野球部は2002年春の甲子園出場、見事全国優勝を果たしたのだ。その次の夏の大会でも2回戦敗退といえども、見事甲子園出場を果たしている。
当時の投手である大谷 智久は現在でもロッテに所属し、現役バリバリで活躍している。

同級生のうちから大谷以外にもプロに進んだ奴がいる。
尾崎匡哉だ。

僕は高校一年生の時、大谷や尾崎と同じクラスだった。
僕自身はスポーツも野球もやらないので、特にこの二人と仲が良くわけでもなく、単なるクラスメイトでしかなかった。

しかし、僕は彼らが毎朝早くから日が暮れるまで野球と触れ合い、野球に青春時代を費やしたのを少なくとも3年間は見てきたのだ。

昼休みは少しでも長くキャッチボールをするために、3限目あたりで弁当を平らげ、少しでも体を作るために先生に隠れて筋トレをしていた彼らのことだ、
これからももちろん、野球と共に人生を歩んでいくのだろう。と、そう思っていた。

当時の甲子園優勝のニュースは野球部には関係ない我々にとってもジーンとくるし、熱く胸を打ったものだ。あの広い球場の真ん中で泣きながら優勝旗を高々と掲げていた彼らの表情は、今でも忘れることができない。

あれから10年以上経った。僕は33歳になった。同級生は2人目の子供を授かりましたとか、2回目の結婚しました。といったsnsの投稿がアップされる世代だ。
野球の世界では年長者と言われるそうだ。

尾崎の現役引退についてこう語っている。
「「戦力外になったこと自体はそれほど落ち込んでいない。9年目(’11年)ぐらいから毎年覚悟はしていましたし、ずっと苦しかった。でも、僕はプロに入ってから何もしていないんです。」

最初は皆、二軍スタートだった。ある者があっという間に駆け抜ける一方、望まざる「二軍暮らし」を続ける選手たちがいる。俺はなぜ、ここにいるのか—苦悩の中であがき続けた男たちの物語。

尾崎自身、一軍昇格までに、6年間も費やしたが、念願の一軍では結果が現れず、すぐに二軍に降格。チャンスを広げるために様々なポジションで挑戦してきた。が、結果には結びつかなかった。

監督から尾崎の登録抹消を宣言された際、坪井コーチは
『こういう苦しい時の立ち居振る舞いでお前という人間の強さがわかる。苦しい時こそ荒れるのではなく、しっかりしろ』
といったそうだ。

「僕はプロに入ってから何もしていないんです。」

尾崎のこの言葉に僕は涙が出た。
野球の世界だけではない。どこの世界だって厳しい。どんなサラリーマンだって、どんな職人だって、どんな地下アイドルだって。
そんなことはみんなわかっていた。
「尾崎自身、心に隙があって、どこか自分に甘かったかもしれないな。」
そんなことは当人だってわかっていたはずだ。

僕の持論だが、野球選手の存在価値とは、どれだけ人に夢を見させてくれるか。どれだけ希望を与えてくれるか。であると思っている。

尾崎は一軍の世界で華々しくヒーローであり続けることは出来なかった。しかし、夢や希望を与えるヒーローは、ずっとTVの中にいる必要もなければ、ずっとプロ球団に所属している必要もない。

僕は大谷や尾崎とは接した期間が大変短かった。実際に会話したのだって数えるほどしかない。
それでも尾崎や大谷の活躍には当時も今も元気をもらったものだ。

お前は高校時代3年間も熱い青春時代を見せてくれて、卒業と共にドラフト指名を受けてプロ入りした、こんなにも立派な俺たちのヒーローだ。

いつか僕に子供ができて大きくなったら教えてやろうと思う。
パパの同級生にすごい奴がいたんだってこと。

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